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アラフォー帆走生活(KAZI連載)
『 観せるセーリング 』(前編) February, 2015 text by Koji Ida
大きなお世話と思われるだろうが、セーリング競技の普及について考えてしまう。
冬になるとヨットハーバーに人がいなくなる。 海の上にセイルボートが浮かんでいない。 春になったら、ちゃんとみんな戻ってくるのだろうか。 そんなふうに不安が膨らむ。 この季節の僕の悪い癖だ。
いまさらだが、僕はセーリング競技が好きというわけではない。辛いし、怖いし。でも、一度はじめてしまったのが運の尽き。「負け逃げは大嫌い」という感情だけで、人生のかなり長い年月をこの競技につぎ込んでしまった。学生時代は2位や3位ばかり。社会人になってからはスナイプの全日本選手権で早々に勝つことができたが、調子にのって世界へ出たら、その壁に叩きつけられた。負けず嫌いの性格が、競技から抜け出す時期を見失わせた。もう意地になって続けるしか仕方がなかった。
だからなのか。自分が払った犠牲の大きさゆえに、セーリング競技の認知度の低さが許せない。昔からずっと。僕が学生時代には“ニッポンチャレンジ”があった。まだ今よりはマシだった。夢も見られた。でも、ニッチャレの消滅とともにセーリングがメディアに登場する機会は激減した。セーリング競技を日本の大衆に認知させる可能性は、ここで消えてしまったと言ってもいいだろう。このままでいいのか。
十年前にこの連載を始めたのも、そんな気持ちが動機のひとつだ。当時は「僕がこのセーリング界をデザインし直してやる」という意気込みもあった。いまはどうだ。やっぱり僕には力不足の役不足。思い上がりもいいところ。何ひとつ変えることはできなかった。
長年、海のうえをチョロチョロ帆走り続けて、いま感じていること。やっぱりセーリング競技なんて、この国で普及するわけがない。だって、道具(ヨット)が高額なんだもの。野球やサッカーだってお金が掛かるのに、それでも一般大衆に愛される庶民のスポーツだ。ヨットには、どうしても“お金持ちの趣味”という先入観がつきまとう。欧米のような階層社会なら、セーリング競技に抱くイメージは違うのかもしれない。でも、ここは日本なのだ。巨人の星とタイガーマスク、そして、あしたのジョー。古来より、この国の競技スポーツでは、その成功とともに貧困から這い上がる姿が美徳とされてきた。
大衆は、自分たちと同じか、さらにつらい境遇から成功した人間を評価し、応援し、共感するものだ。「ヨット」という言葉は、庶民には「住む世界が違う」と連想させるだろう。外車で乗馬クラブへ通う人。劇場へオペラを観に行く人。白いヨットに乗っている人。それらから受ける印象に違いはない。
そんなイメージがはびこる中で、セーリング・アスリートが大衆から共感や評価が得られるだろうか。このままでは難しい。でも、ゴルフやフィギアスケートだって金持ちのスポーツだ。なのに、競技の認知度はヨットと比べれば格段に違う。いったい何が異なるのか。
テレビに映る回数が違う。ネットニュースや新聞で掲載される頻度が違う。セーリング競技は、一般大衆にとっては“観たことがないスポーツ”なのだ。観たことがないものに興味を抱くわけがなく、観たことがないものを始めるわけがない。だから、認知度を上げるための「観せる(=魅せる)セーリング」への徹底した追求が、セーリングの普及に必要なことではないだろうか。■(次回へ続く)
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